2012年夏至を過ぎて、あの日からもう3ヶ月と10日。
なかなかBlogに触れることのできないでいた日々。
多くの方に「うすばさん、Blog、しばらく更新されていませんね。」とお声がけいただく。申し訳ありません・・・ただただ毎日に紡がれてゆく貴いご縁のお導きのなかにあって、なかなか言葉に託すことのできない日々のなかにありました。
今年の3.11に仙台カフェモンサンルーさんとカフェモーツアルトさんで開催していただいた『LISA VOGT's White Gift 写真展』。その後に連綿と続く貴い出会いと恩寵と試練。
お与えいただくご縁を結び、志を事に致し、言の葉に紡ぐ時機を得て、ようやく先月には、リサと共にシロクマくんへのプロジェクトへの思いを綴る。
シロクマくんは北へ北へ。
(画面上をクリックすると拡大してご覧いただけます♪)
その一連の巡回写真展の日々は、あまりにも豊穣。その瞬間瞬間が、奇跡のなかにあった。昨日・今日・明日。次々と心のなかに、人生のなかにひろがりゆく。その数々の天恵に、想いあふれる。
その恩恵は、いよいよ来る7.7−7.15、宮城県石巻市における写真展開催へと発展。これまでの東北巡回展の集大成をお届けする幸いなる好機を迎える。題して『LISA VOGT's White Gift in ISHINOMAKI − みんな・ひとつになって 北極星に願いを – 』。
石巻開催にあたり、まず地元の方々にヒアリングをさせていただいた。「いま、何があれば、いちばん喜んでいただけますか?」「なにがご必要ですか?」
その答えは、「みんな、ひとつっていうこと」といわれた。ある方は、「3.11から、ともかく無我夢中で駆け抜けてきた。いま、一年経って、どっと疲れがでて力が抜けてしまった。一杯のお茶すら、ゆっくりと味わうことがなかった。いまほしいのは、ゆっくり少しの時間でも寛ぐことができること。心のケアが大事。」とお聞かせくださった。
そこで、新暦七夕の日に天に想いが届きますようにと、東日本大震災の一日も早いよりよい復興を願って、石巻中央公民館と石巻専修大学図書館において写真展を開催する運びとした。明後日の月曜日、NHK仙台スタジオで、午前中の番組『ひるはぴ』の中で、ご紹介を取り上げていただくことになった。
(国会中継によってOA日が変更。収録した番組内容は、7.7の開催までにご紹介くださる予定となりました。)
仙台からもカフェモンサンルーさん、関連の皆さん、地元の復興活躍団体の方々とつながりあい・むすびあい・わかちあえる企画を進めることが幸いにも叶う。準備は、まだまだ、たなばたまでばたばただけれど、ようやく、パンフレットも完成。
(上下ともに画面上をクリックすると拡大してご覧いただけます♪)
ようやく、ようやく。
今日から、とつとつ、ひとつひとつ、綴ることを試みる。
失われることのない記憶の回帰を、刻んでおきたいと願う。
2012.3.11。
仙台のカフェモンサンルーは、ほんとうに不思議な時空間だった。
カフェという馥郁としたコーヒー豆の芳しい香りが満ち、そこに集う人一人一人の佇まいが、これほどに果てしない深さと広さを与えゆくものであることかと、初めて迫る体感として享受した。
その空気感は、大内マスターと奥様の日々を生きることの哲学に支えられたものから生まれ来るのであって、真に善く美しくあることへの感性の矜持こそが、人の心に潤いを与えてくれる、一杯の呈茶に込められたエッセンスになっているからだ。
シロクマくんの中に私が存在している場合、実は、周囲は何も見えていない。だから、視覚の感覚をとざす分だけ、ものすごく聴覚や嗅覚や触覚、そして直覚が冴え渡ることを、シロクマくんになることによって学び知ることができるようになった。
小さなベイビーやシロクマくんを愛してくださる方々とご一緒して、シロクマくんは幸福感に満ち溢れると、必ずOrbと共鳴・共振してしまう。
その日、14時46分から、カフェにいらっしゃる方々とともに黙祷を捧げた。
リサの声が聞こえた。「よろしければ、皆さんと共にお祈りをしたいと思います・・」。それまでの談笑が鎮まり、静謐なる時間。とおくでカフェのBGMにかかっていたバッハの旋律がそのままに流れている。むせぶ人の声が時折聞こえる。そこにまた、その想いを包むやわらかな想いが重なり合ってゆく。真っ白い光があふれてゆく。想いが連なり合ってゆく。その瞬間の美しい波長のなかにあって、辺り一帯が澄み渡ってゆくのが真っ直ぐに感じられた。それは、その瞬間、日本の中で、世界の中でつながりあっていたのだろう。モンサンルーでの、そのひとときは、いまも永遠のように感じられる時空だ。
目をつむり光を想う、その瞬間に、脳内の記憶が走馬灯のように一気呵成に回想された。
今回の写真展を仙台で開催していただくことに至ったのは、実は、モンサンルー奥様のオオウチアキコさんと、震災直後にメールをやりとりさせていただいたことが原動力だった。
出会いのきっかけは、2008年に出版した
『The Orbs-japan.com 』の写真集。それから、時々お便りのやりとりをさせていただいていた。
2011年。私の誕生日の3.13にあわせて、そのお祝いにと、郵送で3.9にすてきな包みを郵送でお贈りくださった。包まれていたギフトのCDの音色はとっても不思議で、子供の頃におもちゃ箱をひっくり返したときの心の質感に似て、懐かしさいっぱいの望憶をノックされた。
私は嬉しくなってしまって、当時の仕事場、鳥居坂マジェスティの4chスピーカーの空間で、その夜、その音色を幾度も聞き返して、翌日の明け方から出張仕事。那須二期倶楽部に赴き、3.10に宿泊。その夜は、珍しく、日頃見ないテレビを見た。きっと、オオウチさんがくださった音のトーンが心のなかで巡り続けていて、何か懐かしいこと、久しぶりにテレビのスイッチを入れてみることに、無意識に繋がったのだと思う。
偶然、東京タワーの秘密や、芝・大門の増上寺さんの山門の秘密がレポートされている番組だった。地元のことなので、ふっと東京タワーのことを想い、戦後の復興後、昭和33年の高度成長期への扉を開くシンボルとして、輝かしい放送電波塔がまぶしく建設されたことなどを思い起こしているうちに、すとんと眠りに落ちた。
翌朝の3.11の会議は、予定よりも早めに終わったので、いつもより早い新幹線で東京に戻りオフィスに戻ることができた。オフィスのマジェスティ入り口に到着すると、なんとも咲く白梅と寒椿が美しく思えて、ふと足をとめて、カメラにおさめて、3Fの部屋にあがり、ドアを開けて入室した瞬間、ぐらぐらぐらと足下から揺れた。
気づくと、無意識に書棚を押さえている私がいた。それは今思えば、自分の所在がない頼りなさのなかに、倒れるはずのない書棚にすがっていたのだ。せつない長い長い長い揺れだった。押さえている書棚の一段高いところに大切にしていた弥生時代の壷が、すーっと水平に滑ってきて、ぽかんと床に落ちた。
神様、どうかお鎮まりくださいませと、ただただ祈るばかりのうちに、ようやく揺れがとまった。大急ぎで窓を開けると、庭の石灯籠が吹き飛んでいる。遠くにのぞむ、東京タワーのてっぺんが曲がっていたのだった。
たいへんだ、何が起きたというのだろう。テレビをつけると、津波情報は、まだ届いていない。東京都知事がMXテレビに出てきて、どんなに都庁が揺れたかととうとうと話していた。そんなことはどうでもいいのであって、現在、何がどのような状況にあるのかを知りたいと思ったが、「都内の火事は3カ所ほどだから、大したことはなかった。特別な緊急災害対策などはとらなくともよい」と話していたから驚いた。あれだけ揺れてもたいしたことがないというのかと思い、もう一度、窓の外を確認しに行く。お台場の方で一件、火事があったらしい。東の空に黒雲がもくもくと広がっていくのが見える。家族の安否はかろうじて、携帯電話とSkypeで確認がとれたので、安心した。
テレビの前に戻ると、そのうちに、画面の日本列島地図の東北地方沿岸が、ばっと急激に赤い表示になっていった。津波警報だ。たいへんだ。仙台のオオウチさんたちは大丈夫だろうか。市内は沿岸からは離れているはずだけれどと思った。そうしているうちに、テレビ画面には、上空のヘリコプターから、東北沖の海上から津波のうねりが近づいてくる空撮が届いた。目の前が真っ暗になった。その様子に、思わずテレビ画面の上に手をのせて押さえている自分がいた。どうにもならない無力さ、止めることのできない自然の脅威。全身が震え、テレビの前で動けなくなってしまった。
その後にオオウチアキコさんとやりとりさせていただいたメールには、どれだけ、どれだけ、心に勇気をいただいたき励ましていただいたことだろう。その忘れることのできない思い出が、写真展の仙台開催、以降の石巻開催までの写真展巡回につながっている。
アキコさんにお許しいただいて、ここに忘れないようにしるしておきたい。
それは、人がほんとうにたいへんなときに、どのようにあるか、そのありようにこそ、学ぶことがあるから。そのようなときにこそ、言葉の力がうまれるから。
心は偉大だ。
目に見えない力をつなぎ、目に見えない可能性を引き寄せてくれる。
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仙台のオオウチです。
メールをありがとうございます。
情報が錯綜していてよくわかりません。
でもみんな家族は無事でした。ありがとうございます。
被害がひどかった方々の1日も早いご回復をお祈りしています。
東京も揺れたようですね、どうぞお気をつけて。
心強いメッセージ、なによりの贈り物をいただきました。
ありがとうございますm(_ _)m
オオウチ
取り急ぎお礼でした。
薄羽さま
お忙しい中、とても詳しい情報をありがとうございます。心強くうれしく感激しました!
夕方、県庁に情報を集めに行きましたら、京都ナンバー、品川ナンバー、全国からレスキュー車や自衛隊の車が県庁の駐車場に集まっていて、感動して泣きそうになりました。
薄羽さまからのメールで、5万もの自衛隊の方々がこちらへ向かってくださっていると知り、本当に感動しました。
つい先ほど、電気がつくようになり、歓喜の声をあげたところです。
当たり前にいただいていた恩恵にあらためて感謝です。
ただ、原発にたよらない電気のつくり方をこれからはぜひ検討してほしいと思いました。
水もでるようになり安心してトイレに入れます。
不眠不休で復旧にたずさわってくださった方々に心からの尊敬と感謝を思います。
薄羽さま、いろいろありがとうございます。
地震がきたときは、こんなの大丈夫大丈夫、と笑っていたのですが、今日になって手の震えや頭痛、涙がとまらないなどの症状が。
落ち着いてきたので、やっと本当の感情がでてきてくれたのだと思います。
電気はきたのですが、マンションのアンテナが壊れたのかまだテレビがみられません。
あえて録画してあった楽しい番組などをみて笑って元気をだしています。
停電のため閉めているコンビニが多い中、いつもお世話になっているすてきなご夫婦の経営するコンビニでは電卓でレジをうち、徹夜で接客してくださり、食料がなくて困っている方々を救っていました。また、レジをまつ大行列も、みなさんマナーよく静かに並んで待つ様は、日本人の素晴らしさをあらわしているようで誇らしく思いました。ゆずりあい助け合い思いやりに満ちた店内でした。
大変ではありますが、人のあたたかさ、日本人の素晴らしさを再確認させられ、またまた涙がとまらないのでした。
薄羽さまもどうぞ帰り道お気をつけてください。
ご縁をいただきまして本当にありがとうございます(*^v^*)
オオウチ
余震が30分に一回くらい感じられます。
でも今夜は自宅で寝られそうでうれしいです。
長くなりすみません。
薄羽さま
お忙しい中、メールをありがとうございます。
本日はお誕生日ですね。
連絡がとれていなかった父と、今日の昼間にやっと会えました。
話を聞きましたら、なんと津波にのまれていたのだそうです。
あわてて職場の神棚のような棚にのぼり、潮が引くのをまったそうです。
天井ちかくまである潮は、朝方まで引かなかったそうです。
その間、口が渇き、呼吸がしにくくなってきたところに、なんと缶チューハイが流れついたそうです。
チビチビと飲みながら、糖分とアルコールで体温を維持できたため、なんとか助かったと言っていました。
朝方、潮がひいて膝までになったため、自力でおりてちかくを通った車にのせられ避難所にて暖をとっていたところを弟が見つけ自宅に連れ帰れました。
もともと運のいい父ですが、亡くなった母が缶チューハイを父に届けてくれたような気がします。
長くなりました。
薄羽さまのますますのご活躍を心よりお祈りしております。
2011.3.13.オオウチアキコ
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ありがとうございます。
いただく一言一言の発想のしなやかさのなかに照応する、勇気に満ちた清廉なるこころ。
そして、どのようなときにも忘れることのない、配慮と慈愛に満ちた明朗なるひかり。
忘れてしまいたいことがある。
でも、忘れることをしないで、その先の未来がよりよくあるようにと向き合う。
心の中の来し方の一つ一つに努めゆくことのほうが、よりよいことへの活力となることを信じる。
その原点を、その瞬間にあったことを、これからも忘れないで、前進の糧としなくてはなるまいと心致す。
震災直後の揺れる感覚は、いまもまだ、心の火種になっている。
日本国内の原子炉の火種も、いまもまだ、頑迷固陋のなかにあるのではないか。
この過去Blogを通じても、いかに原子力発電への不安と不信が、その日日に揺らぎをもたらしてきたかを振り返ることができるものだ。
忘れてもよいこと。忘れてはならないこと。
このところ、ずっと国会の福島原子力発電所事故調査委員会の取材を続けていた。
この国会事故調の報告書は、6月末までに国会に提出されることになっている。
これは、国会からの依頼を通じて設置された事故調査委員会なのであって、それなのに、野田内閣は、大飯原発の再稼働決定を、その調査結果を待たずにGOという政治判断を下した。しかも、野田総理は、事故調査委員会は、政府と民間と国会とに存在するが、政府の調査委員会の結果により判断を下し、民間と国会に関しては、参考程度にするという判断を述べている。あろうことか、民間は東電の事故調、政府は首相判断による事故調というのであれば、国会こそ、その中立の視点からの事故調査として、本来は重視すべきではないか。それを、メディアの記者が訝しげにツイートこそすれ、国民皆に疑義呈示できていないことを、これから私達国民はどのように理解し、よりよい方法を編み出せばよいのだろう。
忘れてしまいたいことと、繰り返してはいけないこととは、異なる。
忘れてしまってはいけないことがあるのだ。
シビアアクシデントが起こるか起こらないかは、現在、50%の確率だ。
なぜならば、事故調の答弁を通じてわかったことは、シビアアクシデントが起きれば対応できることがあるが、起きなければ対応できないことがあるという、原子力安全委員会、原子力安全・保安院の事故調における、まったく無責任な答弁が、今も解決ないままに続いているということである。どれだけの、確度の高い安全基準を講じているというのか。どれだけの、安全基準の具体的な説明責任を野田内閣は担えているというのか。
日本国憲法は、国民の経済を守る前に生命を守ることを立法している。
けれども、現代の政治判断は、ピカドンをこの世に生んでしまった科学の力の背景にあるプルトニウム生成という原子力村の既得権から、国家経済(もしくは自己経済都合)を100%優先して、国民の生命を50%の確度で守るという内実だ。
それは、明日何があるかわからない。だから、1/2の確率で都合を選択するということではないか。『法(ダルマ)』という正しい業という意味は、現代、いったいぜんたい、どこにいってしまったのか。
人類が本質を見逃さないことを、ただただ神に祈る。未来への祈りが届くだろうか。
一歩一歩、北へ北へと歩んできた。
天にあって揺らぐことのない北極星に願いよ、届け。
そしていよいよ、一歩一歩、よりよい未来へと歩む。
明日は、フクシマへ。